不思議なめぐり合わせに、生きる意味を言葉にしてしまい、毎度「私」を錯覚する。 「私」は主語のない何事かの記憶を運ぶ、ただの小さなメディアかもしれない。 そう知ったふりして、意味などないと意味付けして、また縛られる。 しょうがないから、超越論から離れたと嘘をついてみる。 すべて受動と宣言してみようと勝手に思う。で、何事の知らない声を待つ。 「会う」も驕慢かも。 ただ、かたじけない。知らんけど。 傾聴僧の会 石倉真明拝